12月8日はジョン・レノンの命日でした。
あれから40年。あの時の事は忘れない。
中学生だった私は、姉がビートルズのポール・マッカートニーのファンで、部屋でビートルズがいつも流れていたので、私もすっかりハマっていた。特にジョン・レノンの声が好きだった。
その頃は、ちょうど80年代に入った頃だったので、日本のアイドルの黄金時代で、ビートルズを好きだと言う同世代は少ないのだが、たまたま同じクラスに、私の様に姉や兄の影響でビートルズが好きな友達が4人いた。ファンクラブに入っている強者もいた。
40年前のあの日、そのうちの1人が教室に駆け込んで「ねぇ!ジョン・レノンが撃たれて亡くなったらしいよ!」と叫び、ファンクラブの子が、ショックで号泣し、つられて皆も泣いていると、担任の50代の女の先生が「あなた達もビートルズのファンなの?私もよ。そんなに好きなら、いい物を見せてあげるから、日曜日に私の家に遊びにいらっしゃい。」と誘ってくれた。
その先生の暮らす家は、銀座の歌舞伎座の隣りに建つビルの最上階で、先生はそのビルのオーナーで、そこが先生のご実家だった。
先生の家にビートルズファンの4人で遊びに行き、リビングに通されると、そこには、ジョン・レノンとその先生が一緒に写る写真が何枚も飾ってあり、ビートルズのレコードにジョンのサインがしてあり、ジョンが使ったコーヒーカップなどいろいろ飾ってあった。
「えー!先生どうして?!」驚く私達に、先生は、紅茶を入れながら話してくれた。
「ジョンはね、大の歌舞伎好きで、お忍びで日本に来た時は、夜の歌舞伎公演を見て、終わった後に必ず、歌舞伎座の隣りのこのビルの1階のカフェでコーヒーを飲んでゆっくり過ごして行ったの。カフェの店長が私の親しい友人で、私がビートルズの大ファンだと知っていたので、ジョンが来店した時は、電話をくれて、急いで1階に降りて『このビルのオーナーでビートルズファンです。』とご挨拶して、しばらくお話しさせていただいた。ジョンは『日本が好きで日本の文化にとても興味があり、特に歌舞伎は大好き。』と見終わった歌舞伎の話しをしてくれて、それ以来、来店するたびにご挨拶させていただいたのよ。」とジョン・レノンの貴重なエピソードを話してくれた。先生もジョンの死をとても悲しんでおり、写真に皆んなで手を合わせ、ご冥福を祈った。
それ以来、その担任の女の先生とは、ビートルズファンとして、いろんな話しをする様になった。
去年、徳島からカーフェリーで東京の実家に帰省した時、晴海埠頭にフェリーが着いて、車ごと下船して、しばらく走ると銀座の歌舞伎座が新しくビルになっていた。「あれから40年近く経つので、先生は90代…お元気だろうか?」と思いながら、信号待ちをしながらスマホで新しい歌舞伎座の写真を撮った。
中学の担任の先生に続いて、もう一人ジョン・レノンと直接交流した人から話しを聞いた事がある。
TBSの美術部でデザインの仕事をしていた時、隣りの席の先輩が、情報番組のプロデューサーから頼まれたと言って、子供の頃のアルバムを持って来ていた。見せてもらうと、ジョン・レノンが写っている写真がたくさんあった。
「何これ?!」と聞くと「オレ、ジョンと親戚なんだよー。正確に言うと奥さんのオノ・ヨーコと親戚。子供の頃、二人が来日すると、葉山の自宅でいつも遊んでもらっていたんだ。」
よく見ると、オノ・ヨーコもたくさん写っていた。ジョンとヨーコの間に子供の頃のその先輩が写っていたり、ジョンに肩車してもらっていたり!「すっ、すごすぎる…」と私が驚愕していると、「うち、安田財閥だからね」とさらっと言った。そんなお坊っちゃまがなんでテレビ局なんかで働いているんだ…と思いつつ、いろいろエピソードを聞いた。
「ジョンは、葉山と軽井沢をとても気に入っていて、来日すると、そのどちらかでヨーコと過ごしていたよ。僕は葉山の家に住んでいるから、いつも遊んでもらっていたんだ。」
当時もその先輩は、葉山の家から愛車のベンツで赤坂まで通勤していた。
オノ・ヨーコは、海外では「ジョン・レノンの未亡人で財を成した人」と見られがちだそうだが、安田大財閥の直系なので、ジョンの遺産をはるかにしのぐ、財産をすでに持っていたそうです。
ジョンは、ヨーコの現代アートの作品に惹かれて、彼女と知り合ったので、大財閥のお嬢様とか関係なく、素晴らしい音楽やアートを生み出すクリエイター同士、惹かれあい、結ばれ、お互い影響し合ったと聞き、その幸せそうな日常写真をたくさん見せてもらい、ジョン・レノンを少し身近に感じた。
その後私は、結婚を機に埼玉県に引っ越してから、埼玉県が主催する埼玉スーパーアリーナでのイベントのセットデザインを依頼され、埼玉県庁の方の案内で埼玉スーパーアリーナに下見に行くと、4階・5階にオノ・ヨーコ全面協力の「ジョン・レノンミュージアム」が併設されていて、特別に見せていただいた。
ジョン・レノンの使用していたギターや楽譜や衣装やメガネなどゆかりの品々が並べられ、ビートルズ時代の品々もあった。
シアターでは、ジョンの生涯の映像を視聴する事ができ、最後のスペースは、白一色の大空間で、その時は特別展示で、ジョンが名曲「イマジン」の歌詞が頭に浮かんだ時に、泊まっていたホテルの名前(ニューヨーク・ヒルトンホテル)が入ったメモ用紙に歌詞を走り書きしたものが、透明のケースに飾ってあり、それを見ていると、突然,白い壁に大きくモノクロのジョンが映し出され、イマジンを歌い始めた。私は、その空間の真ん中に置かれた一脚の透明の椅子に座った。歌っているジョンのアップの映像の下に日本語訳の歌詞が出た。その白い空間でたった一人のためにジョンがイマジンを歌ってくれるという演出だった。
涙が止まらなかった。
その、世界で唯一のジョン・レノンミュージアムも惜しまれつつ閉館したそうですが、10年間でのべ61万5000人が来場したそうです。でもなんで埼玉だったのだろう…?
その後、セラピーの先生からもジョンがアメリカでセラピーを受けた時のエピソードを聞いたり、引き寄せの法則なのか、ご縁があるのか、不思議と私は、ジョンに直接お会いした人から彼の人となりを聞く機会が多く、彼を身近に感じる機会が多かったように思います。
彼が、イマジンに込めた、本当の愛と平和のメッセージを一人一人に伝える様にと言われているのかな…なんて最近思うのです。
コロナ禍で世界中でジョンの「イマジン」が歌われた。日本では、永六輔さん作詞の名曲「上を向いて歩こう」が宮本亜門さんの呼びかけで歌われた。以前のブログにも書いたが、永六輔さんとも私はご縁があり、直接交流させて頂いた。この2曲の名曲は、人類が困難に立ち向かう時に必ず歌われる、人々の魂に響くメッセージ性の強い歌であり、大切な事を思い出させてくれる歌である…。
ジョンも受けたセラピーを学び、私も個人セッション(カウンセリング)を仕事としてやっています。
これまでのご相談は、体調や病気のご相談・薬草の知恵、この先の仕事の悩み、人間関係・家族との関係、いじめや虐待、霊的な話・先祖供養、隠された歴史の話などいろいろです。
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