今年の夏もコロナに集中豪雨に土砂災害にいろいろありましたが、年々厳しくなる状況を「生き抜く力」を身につけてゆく事が大切だと感じます。
徳島に来てから私が自然の中で生きるすべを学んでいる師匠である後藤田喜一さん(79歳)の生き方を小説風に書いてみました。
大切な事を皆に伝えるには、映像化した方が一番伝えやすいと思い、これまでにドラマの脚本は3本ほど書きましたが採用されず、ドラマのタイトルと内容の表面的な所だけパクられて、私が本当に伝えたい事が全く伝わらない内容である局で放送され、やはりテレビ局は信用できないと、脚本は書くのをやめていましたが、後藤田さんから学んだ事は、これからの厳しい世の中を生きてゆくのに必要と感じ、わかりやすく小説風に5千文字ほどの文章にまとめてみました。(ちなみに後藤田さんのお孫さんは小・中学生なので、主人公は架空の人物です。)
ぜひ、読んでみてください!
「生き抜く力」
2020年、世の中はコロナ一色。しかし僕にとっては、特別なかけがえのない年になった…。
1月の始めに中国で原因不明の肺炎について、厚労省が注意喚起してから、2月に入り瞬く間に日本でも感染が広がり始めた。
地元徳島の僕の大学も休校になり、そのまま大学2年の終業もなく春休みになってしまった。
家で時間を持て余していた僕は、同居する79歳のじいちゃんが、早朝から何やら慌ただしく軽トラで出かけて行き、夕方に帰ってくる事に気づいた。「じいちゃん毎日どこに行って何をしてるんだろう…」ふと気になった。
思えば、子供の頃は、毎日じいちゃんとお風呂に入り、よく遊んでもらった。中学生になった頃から、じいちゃんと距離を取る様になり、高校生になった頃には、もうほとんどしゃべることもなかった。大学生になって、じいちゃんと顔合わせることもほとんどなくなり、じいちゃんの存在を気にすることもなくなっていた。
しかし、自粛生活で、家族と毎日顔を合わせ
、自然と会話も増えていった。
「ねぇ、じいちゃん毎日何をしてるの?」
母に聞いてみた。すると「じいちゃんはね、季節ごとにやることがたくさんあって忙しいの。コロナなんて関係なく、自然相手にいつものように淡々とやるべきことをやるのがじいちゃんなのよ。」と言った。
「具体的に何をしているの?」と聞くと母は、「じいちゃんに聞いてみなさいよ。」と言って笑った。
翌朝6時に起き、慌ただしく動いているじいちゃんに声をかけた。「じいちゃんおはよう。」すると久しぶりに孫に声をかけられ、びっくりした顔のじいちゃんが「おう。なんだこんな朝早く珍しいな。」「いや。じいちゃん毎日何やってんのかなぁって気になって…」すると「ついてくるか?」とじいちゃんが言った。
僕は軽トラの助手席に乗り込んだ。じいちゃんは家から5分の畑に立ち寄り、冬野菜をいくつか収穫して、また軽トラに乗り、ぐんぐんと勾配の強い山道を登り、20分ほど走って頂上付近に着いた。そこはじいちゃんが持っている広大な山だった。
「あぁここは、子供の頃に来た記憶がある。でもその頃よりずいぶん整備されてるな…」と僕がつぶやくと「10年ぶりくらいだろう。」とじいちゃんが笑った。
その山は、じいちゃんが今の僕よりも若い頃から働きつめて貯めたお金をつぎ込んで、40代の時に買った山で、チェーンソーで木を切り倒し、ユンボで木の根っこを掘り起こし、山に道を作り、小屋を建て、山頂付近の谷川から水を引き、花が咲く木や実の成る木を千本以上植え、コツコツと1人で作り上げていったじいちゃんの生き様そのもののような山だった。
じいちゃんはユンボで山の土を掘り、数日かけて粘土を作り、それをこねて、ろくろを回してひたすら器を作った。
「じいちゃん何をそんなにいっぱい作ってるの?」と聞くと「日本各地にいる、山野草仲間から頼まれた野草鉢を作っとる。」ろくろに向かいながらじいちゃんは答えた。じいちゃんのしわの手から、魔法の様に器が生まれてくる。外に並べた天日干しの器を見ていると、さっきまで粘土だったのが嘘の様だった。
「山の土から、こんな器が出来るなんて、信じられないな…縄文人って土器をこんな風に作っていたのかな?」真剣に器を作るじいちゃんの横顔がとってもかっこよく見えた。
じいちゃんが畑から採ってきた朝採れ野菜で手際良くお昼ご飯を作ってくれた。じいちゃんの手料理を食べるのは、初めてだったが、素材の味を生かしていて、とても美味かった。
「この茶碗や皿もじいちゃんが作ったの?」
「そうじゃ。」
土の風合いが良く、料理を引き立てた。
「こういう器もいいね。料理が美味しそうに見える。」
「見た目だけじゃなくて、昔は土鍋や土瓶、鉄鍋や鉄瓶を使いながら、土のミネラルや鉄分を補給していたのだよ。今の食器やステンレスの鍋では無理じゃな。こういう土の器は、健康にもいいんだよ。」
「へぇー」知らないことばかりだ…。
午後は、山で大量の落ち葉を集め、軽トラックの荷台いっぱいに積んだ。
「この大量の落ち葉どうするの?」
「畑に運ぶんだよ。」と言って、軽トラに乗り込み畑に向かった。
畑に着き、じいちゃんと落ち葉を一面に撒いた。「これは、この辺りで古くから伝わる落ち葉農法で、山の落ち葉には、様々な微生物がついていて、これを軽トラ何杯分も畑に混ぜ込む事で、畑の土に酸素が入り、ふかふかになって、微生物がとても元気になるんだよ。」と言いながら、じいちゃんは、手押しの耕運機で落ち葉を畑に混ぜ込んだ。
「ちょっとそれやらせて。」と僕はじいちゃんと交代した。じいちゃんは軽々とやっている様にみえたが、想像以上に振動が身体に伝わり、体力を消耗する。畑全部に混ぜ込み終わった時には、僕はバテバテになった。
「こんなに体力使う事、じいちゃんは毎日やっているの…?」と聞くと「もう何十年もやっているから、これも慣れじゃ。」と言って、じいちゃんは、草刈り機で畑の周りの草を刈った。
夕方になり家に帰ると、僕はぐったりとソファーにもたれた。じいちゃんは笑いながら「よく働いたから疲れたじゃろう。今日はよく眠れるぞ」と言った。
毎日コロナのニュースばかりだったが、じいちゃんは、たんたんと季節の野菜を育て、山を整え、土で器を作り続けた。大学が休校の僕は、じいちゃんの作業の手伝いを始めた。
チェーンソーの使い方を教わり、山の木を間引き、枝打ちをして、光が入る様にして、草刈り機で下草を刈り、大雨で崩れた道を修復し、山を整えた。切り倒した木や枝は、細かく切り、乾燥させ、じいちゃんの手作りの窯焚きの薪になる。窯焚きで出来た草木灰は、灰汁釉薬になったり、畑の肥料として土作りに使う。実に無駄がない。切り倒したくぬぎは一定の長さに切り、ドリルでたくさん穴を開け、キノコの菌を埋め込み、湿度のある山の中にならべ、椎茸やナメコなど原木キノコ栽培になる。木のつぎ木や挿木の仕方を教わり、育てた苗を山に移植し、花が咲く木や実の成る木を増やしていった。習う事すべてが始めてで新鮮だった。
外作業をしながら、じいちゃんに話しかけると「しっ!だまって!」とじいちゃんは耳をすませた。空から「ブーン」という音が聞こえ、じいちゃんは、虫とり網を持って音のなる方へ走り出した。後をついて行くと、山の上の方でミツバチの大群が空一面に飛んでいた。ものかげで見ていると、だんだんとミツバチは一ヶ所に集まり出して、木の幹にサッカーボールくらいのひとかたまりになった。じいちゃんは、すかさず虫とり網でミツバチのかたまりを獲り、その近くに設置していた巣箱に移した。
「今では貴少な日本ミツバチじゃ。女王蜂がちゃんと入ってくれたら、居着いてくれる。以前は、この山のあちこちに設置した巣箱25箱に日本ミツバチが入っていて、たくさんの蜜が採れたのだけど、この数年で、めっきり減ってな…今じゃ、数箱しか入っとらん。久しぶりでうれしい。居着いてくれるとええな。」「なんで減ってしまったのかな?」「里の方では、農薬の影響じゃないかと言われてるけど、この山で農薬は撒いていないし、近くに民家もないし、おそらく、巣喰い虫や外来のスズメバチが巣を襲うからだと思う。貴少な日本ミツバチが減ってしまうのは残念な事じゃ…」
お昼にじいちゃんの育てた無農薬野菜のサラダと日本ミツバチのハチミツをパンに塗って食べた。「ああ、この味懐かしいな…」僕が小さい頃からあたり前の様に食べていたハチミツは、こうやってじいちゃんが日本ミツバチの貴重な蜜を絞ってくれていたのだと知った。
「ところでお前、陶芸をやってみる気ないか?私のやり方は、この山の土で粘土を作る所からやるので、大変ではあるけどやりがいはある。」聞けば、世の中の陶芸家のほとんどは、陶器の産地から陶芸用の粘土を取り寄せて作っていて、土から粘土を作る所からやる人は少ない。
「うちは、阿波忌部の血筋なのは知っているか?この徳島県吉野川市は、古代から『麻植(おえ)』という地名で、神聖な仕事をする技術者集団である阿波忌部が、麻を栽培して、繊維から糸を績み、織って、大麻布を作っていた。麻の繊維から紙も漉いており忌部神社近くの『紙漉(かみすき)』という地域が日本の和紙の発祥の地でもある。出来上がった麻織物や麻和紙を阿波藍で染め、それら多くの技術を日本全国に伝えて行った歴史があるんじゃ。
阿波忌部が伝えた技術は、麻の栽培技術・織物・紙漉き・藍染だけではなく、石積み技術や薬草の知恵そして忌部の焼物の技術もある。
その忌部の焼物の技術が色濃く残っているのが、瀬戸内海を渡った岡山県の備前焼であり、備前焼の窯元が集まる町は『伊部(いんべ)』といい、備前焼は古来より『伊部焼(いんべやき)』と呼ばれていた。もともと、私は備前焼の素朴な風合いが好きで、そのルーツとなる阿波麻植のこの山で阿波忌部の子孫である自分が忌部焼を復活させようと、この土地の土を使う事にこだわって作っている。お前にも阿波忌部の血が流れているから、興味があるのならやってみるか?」
じいちゃんの話しを聞いて驚いた。阿波忌部の存在は知っていたが、忌部がそんなに様々な技術を日本中に広めた技術者集団だった事や、自分がその子孫である事もよく知らなかった。
「じいちゃん!俺、すごく興味がある。やってみたい!」「よし!じゃあ土を作る所から教えてやる。」と言って、山の土が剥き出しになっている所に行き、スコップて土を掘り出し、三輪の手押し車に乗せて運び出し、粘土作りの作業場に運んだ。土の中から石を取り除き、水の中にその土を入れ、ひたすらかき混ぜ、ザルで細かい砂利を取り除き、水を抜いて残った泥を広げて乾かした。僕もその一連の作業を手伝ったが、かなりの重労働だった。「毎回こんな大変な作業をして粘土を作っているだね…」と僕が呟くと「楽しい作業さ!この泥を数日乾かすと粘土になって、それが器になる!魔法みたいだろ?」とじいちゃんは嬉しそうに言った。本当にじいちゃんの手は、なんでも作り出す魔法の手だ。
「重労働で汗かいただろ?ひと風呂浴びるか?」「風呂?どこにあるの?」
するとじいちゃんはニヤリと笑い、「ついてきな」とタオルを持って、山の奥に向かって歩き出した。ついて行くと、高台の開けた場所に三方が木の壁に囲まれた小屋が建っていた。
のぞくとそこは、大きな石を積み上げて作った岩風呂だった。「この岩風呂もじいちゃんが作ったの?」僕は驚いて聞いた。「そうじゃ。粘土作りをするたびに泥だらけになるから、ひと風呂浴びたくて作った。せっかく露天風呂作るなら、眺めのいい場所がいいと思ってこの場所にした。最高の眺めだろ?ここはまだ誰にも教えていない秘湯だよ。水は山の自然水で、薪はこの山の木を間引いた間伐材だから、全部タダだ!自分で入る風呂は自分で沸かす。火を起こして沸かしてみろ。」
火起こしは、まず乾いた杉の葉を集めて着火材にする。小枝から燃やして、徐々に太い薪を燃やしてゆく。ナタで薪を割るのも大変な作業だ。1時間かけて風呂を沸かした。岩風呂に入ってみると、そこからの展望は絶景だった。山頂なので雲が近く、遠くまで山並みがよく見えた。「すごい!仙人になった気分だね!」「最高の気分だろ?」「知らなかったよ。じいちゃんが一人でこんな楽園を作って、楽しんでいたなんて。なんで今まで教えてくれなかったの?」「お前は、私に興味などなかっただろう?」そうだった…。正直、大学生になってから、毎日友達と騒いたり、バイトしたり、家でゲームしたり、そんな日々を過ごしており、じいちゃんの存在を気にも留めていなかった…。
「私は、子供の頃に父を亡くして、長男として、母を支え、幼い弟や妹達を守らなければならなかった。8才からずっと働きづくめだった…。だから今、昔出来なかった事や、やりたかった事を全部やる!楽しい事を毎日やって充実した日々を過ごしているわけだ。」
「そうだったのか…。じいちゃん、俺を弟子にしてくれ!俺、じいちゃんから教わりたい事がたくさんある。知らない事ばかりだ。コロナで大学も当分休校だし、学校で学べない事をじいちゃんから学びたい!」
「よし!わかった。私は弟子をとらない主義だが、孫の頼みとあっては仕方ない。弟子にしてやる。」
それから僕は、じいちゃんの様々な作業を手伝いながら、本格的に陶芸も学んだ。学校は相変わらず休校で、週に何回かリモートでゼミを受けていた。
このコロナという感染症が世界中にもたらしたものは計り知れない。失われた人命、経済的打撃、先の見えない不安…。でも僕にとっては、コロナによって立ち止まった事によって、新たな世界が広がるきっかけになった。コロナがなかったら、僕はだた何となく大学に通い、安定を求めて公務員になる事しか考えなかっただろう。しかし、大学3年のこの時期にコロナという感染症により、立ち止まざるえなくなった事で、久しぶりにじいちゃんと向き合い、身近にある大切な事にたくさん気づかされた。大学では学べない『生き抜く力』をじいちゃんからたくさん学んだ。この先の僕の人生は、新たな世界が広がっており、様々な可能性がある事に気づくきっかけをもらった。
歴史は繰り返される。僕達は全員、様々な時代の災害や疫病を乗り越えて来た先人達の子孫であるわけなのだから、先人の教えに学んで、生き抜く力をつけ、この大変な時期を乗り越えてゆける!じいちゃんを見ていると僕もそんな勇気が沸いて来た。
じいちゃんありがとう!