『上を向いて歩こう』

また水害で何人もの人が亡くなりましたね。

熊本は、地震・水害・コロナの三重苦ですね…。本当に大変だと思います。

今回の九州の水害被害に遭われた方々にお見舞い申し上げます。まだ梅雨の終盤の大雨が各地に降り続ける様なので、皆さんくれぐれもお気をつけください。

毎年、私は七夕が来ると二人の人に手を合わせます。

一人は、七夕が命日の故・永六輔さん。もう一人は、七夕が誕生日だった故・池林國男さん。

このお二人には、13年前に水害対策の防災船を造った時に大変お世話になりました。

永六輔さんは、皆さんもご存知の坂本九さんの「上を向いて歩こう」「見上げてごらん夜の星を」やドリフの「いい湯だな」や梓みちよさんの「こんにちは赤ちゃん」や旅番組のテーマ曲「遠くへ行きたい」など数々の名曲を作詞された方で、放送作家・司会者としてラジオやテレビ放送の始まりからの草分け的存在でした。

特にラジオは東京放送(TBS)がラジオ東京だった時から、亡くなる直前までパーソナリティをやり続けて、ラジオをこよなく愛した方でした。

私は、TBSでラジオ・テレビ両方の仕事をしていたので、局内で永さんを見かける事は何度かありましたが、直接交流する様になるのは、それから10年以上経った30代の時からでした。

都内のあるホールに講演会を聞きに行った所、その司会をしていたのが永六輔さんでした。

講演会が終わって、ロビーに出演者の方と永さんが、大勢の方々に囲まれて、握手とサイン責めにあっていて、私は一瞬、永さんと目が合いました。すると、永さんは、人をかきわけて、こちらに向かって来ました。

そして「あなた何て名前?どこから来たの?何をしている人?」と早口で聞いて来ました。

当時は埼玉に移住して、衣食住のデザインやショップをやっていたので、チラシを見せてしばらくお話しをして「では、失礼します。」とエレベーターに乗った所、ファンの人が大勢待っているのに永さんがエレベーター乗り込んで来て、私の横に立ってまだ何か話したそうでした。結局、ホールの玄関まで、見送ってくださり、その日は東京の実家に泊まり、次の日埼玉に戻ると永六輔さんからもうお手紙が届いていました。「昨日は、来てくださりありがとうございました。」と言うお礼となぜ話しかけたかの理由が書かれていました。

永さんのご実家は浅草のお寺でご住職の息子さんだそうで、昔から霊的なものを感じるそうで、私に神がかったものを強く感じたそうで、「あなたは、神道系ですね。龍神も見えました。」と言われ、父方が代々神官で、宮司の祖父の後は、父は神官を継がずに父の弟(私の叔父)が継ぎ、龍神の宝を護って来た事や私が巫女体質でそれを強く引き継いでいる事など、お話ししました。

そうして、永さんとはしばらく手紙のやり取りが続きました。

水害対策の防災船を作ることになった経緯はとても不思議な話で、14年前のある朝、私は「水害が来るから船を作りなさい」と言う声で目覚めました。「水害?船?何のこと?」と思っていると、その日のうちにノアの方舟の物語や方舟の設計図や方舟がたどり着いたアララト山の舟形の跡の写真を私に届けに来る人が3人も現れました。

物語を見てみると"ある朝ノアが「水害が来るから船を作りなさい」という声で目覚める"という始まりでした。「あれ?今朝聞こえた言葉と同じ…これはご神託で私にやれと言っているのかもしれない…でもどうやって?木工は得意だけど、船なんて作ったことないし…お金は?場所は?人はどうやって集める?」

私は、宮大工の棟梁や国宝の修復を任されている木工家の方や今年亡くなった環境保護活動家のC・W・ニコルさんなど、自分の人脈で相談できる人にかたっぱしからあたっていた時に知人の紹介で池林國男さんと知り合いました。

池林さんは、東京の千代田区で出版デザインの会社をされていた方で、カヌーを作るのが趣味で、ちょうど大きな船が作りたいと思っていたところでした。

映画パイレーツ・オブ・カリビアンやアニメのワンピースなど海賊船ブームだった事もあり、子供たちとその親を集めて、埼玉の地元の木材を使って、水害対策の防災船を作ると言うような内容で、補助金を申請し、池林さんのおかげで、すべてが順調に進み、2年間の事業で50人ぐらい乗れる木造船(写真)を造りました。

船を完成させ、隅田川を子供たちと一緒に漕いで、浅草の吾妻橋ゴールのイベントを開きお披露目する事になり、永さんのラジオ番組『土曜ワイドラジオTOKYO 永六輔その新世界』で全面的に中継してくれて「今後の異常気象による大規模な水害に備えて欲しい!」と多くの人に伝え、ラジオの多くのリスナーが、隅田川の橋という橋に集まり、船に声援を送ってくれて、ゴールの吾妻橋では、東京消防庁の船2隻が放水して水のアーチをつくってくれてくぐってゴールしました。

池林さんは船の完成を見届けて、イベントの後に心筋梗塞で亡くなってしまいました。

その後私は、仕事で徳島県とご縁ができ、四国へ通うようになりました。池林さんが亡くなって2年目の命日に徳島県にいた私は、池林さんが香川県の琴平出身だったことを思い出し、金比羅山にお参りに行くことにしました。長い階段をひたすら上り、金刀比羅宮にたどり着いたときに、そこが船の神様の神社だったと気づきました!「あー!船を造りなさいと私に伝えた声は金比羅の神様で、琴平出身の池林さんを船を造るために私に出会わせてくれたのだ…」と思い、池林さんのご冥福を祈りながら手を合わせました。

池林さんが亡くなってしばらくして、東日本大震災が起こり、地震と大津波の大災害となりました。金比羅の神様からのご神託の通り、津波や線状降水帯の集中豪雨で川が氾濫したり、水害が毎年のように来るようになりました。

昔は、水害対策で家の梁に船を固定している家が多かったそうです。間伐材などで、船を造る事もこれからの時代必要になってくるかもしれません。そのためのシュミレーションだったのかも…。

東日本大震災の時も、今回のコロナの時も永六輔さんの「上を向いて歩こう」を多くの人が歌い継いでいますね。

全米ビルボードチャートで1位をとった時も、戦時中アメリカで辛く厳しい思いを経験していた日系人の多く人たちの心にあの歌詞が響いたそうです。メロディも素晴らしいので「SUKIYAKI」のタイトルで、日本語の歌詞のまま世界中で1位をとったのもうなずけますね。

やはりあの歌詞は、苦しい時に勇気を与えてくれる力がある永遠のメッセージです。

7月7日が誕生日の池林國男さん、命日の永六輔さん、本当にお世話になりました(^_^)

 

今、私に切実に相談したい方や緊急性のある方の個人セッション(カウンセリング)を仕事としてやっております。夜にメールのやり取りで対応するので、遠方の方でも大丈夫です。

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お待ちしております!

(とても切実でぜひ話しを聞いてほしいと言う方の力になりたいので、興味本位やひやかしの方や人を試す様な方は、申し込みをお断りしています。)

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