『生きて来た土地のルーツを知る②』

自分にゆかりのある場所や土地のルーツを知るとなぜそこにご縁があったのか、自分のキーワードが見えてくるというお話しの続きです。

前回は「水辺」と「龍神」が私のキーワードだとお伝えしましたが、今回はもうひとつのキーワード「阿波」についてお話します。

私の東京の実家近くに「花畑・大鷲神社」があります。正式名称は「大鷲神社」ですが、他との区別のため「花畑・大鷲神社」とさせて頂きます。「大鷲」と書いて「おおわし」ではなく「おおとり」と読み、江戸時代まで「鷲大明神社」と呼ばれていました。

ここは、「酉の市(とりのいち)」発祥の神社としても知られます。酉の市といえば、今では浅草の鷲神社が有名ですが、もともとはこの花畑の大鷲神社が始まりでここが一ノ酉、その後千住の勝専寺がニノ酉、浅草鷲神社が三ノ酉と広がって行きました。

そして、この花畑・大鷲神社は東京最古の寺・浅草寺(創建628年)の奥の院とされ、古来から身分の高い方々が船に乗り参拝に来ていたそうです。

さて、この大鷲神社(鷲大明神社)がなぜ「鷲」なのか。それは、阿波(徳島)で古来より神聖な仕事をしていた阿波忌部の祖神・「天日鷲命(あめひわしのみこと)」から来ています。

私が通っていた足立区島根の中学校の側には「鷲神社」があり、その近くの「普門寺」の境内にある「鷲大明神の祠」は「御酉様(おとりさま)」の元祖でここから、実家そばの大鷲神社と中学そばの鷲神社に御酉様つまり阿波忌部祖神・天日鷲命分祀したと風土記で伝えられています。

私の育った場所の神様は阿波忌部の天日鷲命だったのです。つまり酉の市は阿波忌部の天日鷲命のお祭りでもあるのです。

ではなぜ阿波(徳島)から遠く離れた東京に天日鷲命をお奉りするのでしょう?それは、関東で天日鷲命を奉る神社を調べるとよくわかります。

東京だけでなく、関東の各県に天日鷲命を奉る神社がありますが、なかでも最も多いのが千葉県です。古代に阿波忌部が黒潮に乗ってたどり着いたのが、現・千葉県館山市安房(あわ)でそこに麻(総)を植えた事から房総半島と言い、関東全域に広がり、そのゆかりの地に天日鷲命を奉ったのです。

現在、天日鷲命は諸国の土地を開き、開運、商売繁盛に御神徳の高い神様として各地に奉られています。

その後、社会人になって、東京港区赤坂に勤め、一時期、港区芝公園横のマンションに友人とシェアして暮らしたのですが、芝公園は東京タワーがある事で知られていますが、実は園内には前方後円墳の芝丸山古墳、丸山貝塚もある古くからの聖地である事はあまり知られていません。現在の増上寺や東京タワーの建つ場所にはかつて「芝大神宮」があり、江戸時代に入り増上寺が移転してきたため、現在の場所に移りました。

芝大神宮は伊勢神宮内宮の主祭神である天照皇大御神伊勢神宮外宮の主祭神である豊受大御神を奉ってましたが、その豊受大御神の祖神は阿波の国(徳島)の女神の大宜都比売(オオゲツヒメ)であり、稲・粟・麦・小豆・大豆など食物を生み出した神で五穀豊穣をもたらした神です。

その後、結婚して埼玉県飯能の山奥に移住し、暮らす事になった家が建っていた山の頂上に千手観音堂があり、その天井には、龍と戦う女性の絵が描かれており、私はその絵に引寄せられ、毎日犬の散歩で山を登り、千手観音堂で手を合わせて帰る日々を送っていました。それから20年以上経って、徳島県吉野川市の霊山・高越山に登り、山頂にある高越寺の山門に彫られた彫刻を見て驚きました。埼玉の千手観音堂の天井画と同じ龍と戦う女性が彫られていました。調べてみるとそれは四国の伝説でした。

「なぜ埼玉の山奥に四国の伝説⁈」と不思議に思いました。

もちろん自分が生きてきた当時は、いずれ自分が阿波に導かれる事になるとは、知る由もなかったけれど、今になってたどってみると、私の生きてきた場所は、天日鷲命や大宜都比売など阿波の神々や伝説が関係しており、今年生まれて半世紀目にして、自分の名付け親が徳島出身の人だとわかったり、毎回言うようにすべては偶然ではなく、起こるべくして起こっている…必然なのです。

長くなりましたが、皆さんも生きて来た場所の由来を調べると不思議な繋がりが見えてくる可能性があります。

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『生きて来た土地のルーツを知る①』

 生まれた場所・住んだ場所・勤めた場所など、これまで生きて来た場所(土地)のルーツを知ることや地図上にしるして見ることで、見えてくることがあります。

私の場合、まず見えて来たキーワードは「水辺」と「龍神」でした。

生まれた場所は東京の板橋区清水町ですが、昔はこのあたり一帯の崖から清水が涌き出て泉をつくり「出井の泉」と呼ばれ、現在は暗渠化された出井川の水源となっていました。この付近にはこの他にも多くの湧水があり、紀元前5世紀には出井の泉や出井川の周辺で、人が住んでいた痕跡があるため、縄文時代には出井の泉はすでに水が湧いており、それが「清水町」の地名の由来ともなりました。
その後住んだ場所も常に川や池や湖など水辺の側でした。いくつか紹介すると、幼い頃に1年間だけ、父親の故郷の宮崎県西都市で暮らしていました。父の生家は神社をお護りする神官の家で、その神社は海から12kmも離れた内陸にあるのに古代から境内の一隅に枯れることなく塩水が湧く泉があり、人々は龍神の霊泉として信仰しており、かつてこの地を平安の歌人和泉式部が訪れ、病に倒れた時にこの泉の水で湯治をしたらしく、私も幼少期のこの時に龍神の洗礼を受けた様です。

それから東京に戻り、保育園は足立区の辰沼と言う所でしたが、伝承によれば昔この地に大きな沼があり、その形が龍に似ていたことから「辰沼」と呼ばれるようになった場所でした。

その後、川辺りの実家で暮らしました。

高校は杉並区和泉という場所でしたが「和泉」の地名の由来は「どんな日照りでも枯れることがなかった泉」があり、雨乞いを行なっていた場所でした。

私は、子供の頃から東京の水と空気が合わず、体調を崩して、自然療法の先生から「あなたは、東京が合わないのだね。身体が塩素で消毒された水や排気ガスで汚染された空気をなるべく取り入れない体質になっています。東京を離れて、水と空気のきれいな所にすぐに移住しなさい」と言われ、原始の水や酸素を求めて、まだ世界遺産になる前の屋久島や知床に通い、知床で知り合った人と結婚し、銘木で家具を作る夫の仕事の都合もあり、25歳の時に埼玉・名栗の山奥に引っ越しました。

暮らす事になった家の裏に洞窟があり、水が湧き、ワサビがたくさん生えていました。その湧き水を飲んでいたら、体調が戻ってきました。時々、家の中を「ビューー!」と強い風が吹き抜けて裏の洞窟に入って行きました。近くの湖のほとりに龍泉寺があり、その奥に「龍神淵」という古代から雨乞いの聖地があり、夫と「裏の洞窟には龍が住んでいて、人々が雨乞いをすると龍神淵に出向いているのでは?」と話してました。

その後、ご縁で秩父の今宮神社で1年間だけ巫女をやりました。その今宮神社の境内には龍神池と呼ばれる池があり、秩父の霊峰・武甲山からの伏流水が湧いていました。毎年、4月4日に秩父神社から大勢の神官たちが、大名行列の様に歩いて今宮神社まで出向き、秩父の霊水である今宮の龍神の泉の水を分ける「水分祭(みくまりさい)」を行い、その後「龍神祭」を行います。秩父神社の神官たちは、今宮神社から分けて頂いた龍神の水と藁の龍神秩父神社まで持ち帰り「御田植祭」を行います。神社境内の敷石を水田に見立てて苗代作りから種蒔き、田植え、収穫までの農耕儀礼を、田植歌を歌いながら行い、その年の秩父の豊穣を祈ります。
12月3日に行われる秩父夜祭の際、今宮神社からの藁の龍神は大真榊を立てる榊樽に巻き付けられ、神輿・笠鉾・屋台の行列と共にお旅所へ供奉することになっています。世界文化遺産にもなった秩父夜祭は「秩父の聖山・武甲山の伏流水が湧く今宮神社の龍神水のおかげで今年一年の秩父が豊作であった」と感謝をするお祭りでもあるのです。秩父で一番重要な神社は、八大龍王を奉った今宮神社なのです。

その後、埼玉・比企郡ときがわ町都幾川の水辺に移り住みました。比企郡は埼玉県内で一番多く古墳や遺跡のある地で、巨石文明の巨石もあり、伝承で都幾川を挟んで龍神山(現・弓立山)の頂上にある男根石の巨石・男鹿岩に雄の龍が住み、対岸の山にある女陰石の巨石・女鹿岩に雌の龍が住み、二匹の龍は一年に一度の七月七日の晩、麓の都幾川で逢うことができました。しかしある年の夏、大地が割れるような日照りが続き、雌の龍がいずことなく姿を消してしまったそうです。これを悲しんで雄の龍は大粒の涙を流し、雌の龍の後を追っていつの間にか姿が見えなくなりました。地元には七月七日には災いが降りかかるという言い伝えも残っており、その日は決して外に出なかったそうです。

そんな訳で、これまで導かれて暮らす所は、いつも水や龍神が関係していました。すべて、偶然ではなく必然だと思います。

生きて来た土地のルーツからもう一つわかって来たキーワードは「阿波」です。

長くなったので、次回の投稿でお伝えします。f:id:Rei-wa:20191204042838j:image

『名の持つ二つの意味』

1968年3月15日、東京・板橋区で生まれる。

私の「玲」と言う名前は、母の友人の霊感の強い巫女体質の女性が名付けてくれました。

音読みは「レイ」訓読みは「ゆらめく」。

日本には「言霊(ことだま)」と「音霊 (おとだま) 」いう言葉があります。「言霊」は「言葉にはものの霊が宿っている」という考えで「音霊」とは「音に宿る霊(エネルギー)」のことです。

名前にも文字(言霊)からの意味と音の響き(音霊)からくる二つの意味があります。

ちなみに「玲」の文字の「王」はもともと「玉」の意味で「令」が「清らかに澄んだ」状態を指すので「清らかに澄んだ玉」の意味や、玉は礼器であり、また魂そのもの、生命力の根源にかかわるもので、神を呼び戻し神を送るときの楽器、邪霊を祓うものなので、玉(ぎょく)のふれあう音の意味から「ゆら」が触れあう音「玉や金属がふれ合って鳴る美しい音」を表す漢字です。

そして音霊「レイ」は「霊的なエネルギー」を表しています。

名付け親の女性は、降りてきた名前を付けてくれたようですが、これは偶然ではなく、私の先祖は代々神官で古代から枯れる事なく水と塩が湧く龍神の禊ぎの聖地を守っている家で龍神の宝珠は私そのものなのです。

そして私は「あわたま」というものをやっていますが、これは古代日本の真の聖地である阿波(徳島)のエネルギー「アワスピリッツ」から来ている名前で、生まれも育ちも阿波とは関係ない私がなぜ阿波のエネルギーと繋がり、導かれたのか不思議だったのですが、今年の4月に東京の品川に住む、私の名付け親の女性に会う機会があり、その時に「玲は今、徳島に住んでいるのだって?実は私の両親も徳島出身で私も徳島で生まれ育ったのよ。」と言われ、驚愕しました。玲という名前を付けてくれた人は阿波(徳島)の人だった…生まれた時から阿波とご縁があったのだ…。すべては偶然ではなく必然なのですね。

今年は天皇即位で年号が「令和」になりましたが言霊は「清らかに澄んでなごやか」で音霊は「霊的な繋がり」と言った所でしょうか。

皆さんの名前の持つ言霊と音霊の二つの意味をあらためて知ってみると生まれてきた事の意味が見えてくるかもしれません。

 

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『Rei-waブログ開設』

自由に書きたい事を書く場所が欲しくて、今さらながらブログを開設。

Reiの話なので「Rei-waブログ」。

生まれてからこれまで起こった出来事や強烈な思い出、感じた事、体験した事、やって来た活動など、自己満足で良いので記録に残しておきたいと急に思った。

死が近いのかな…(^_^;)

他人が見たら興味のない事だろうけど、「自叙伝」的な物を自分勝手に書いてみる。

もし興味がある奇特な方は、時々のぞいてみてください(^_^)

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