2011年3月15日は、早朝に福島原発で最後の水素爆発があり、むき出しになった格納容器から直接、最も大量の放射性物質が放出され、南向きの風に乗って関東地方へ拡散した。
人生最悪のバースデーになった…。
震災から9年目にして初めて、当時の体調を記録した日記の内容や東北に物資を届けて見てきた光景をお伝えします。
子供の頃から動物的本能と五感が鋭いので、大きな地震が来るのは、体感でわかる事が多かった。
2月半ばすぎから異常な電磁波を何度も体感し「これは巨大地震の前兆だ…」と感じた。
当時、埼玉県のときがわ町の銘木家具展示場の一画に薬草カフェを建てて、そこに来るお客さん達に「近いうちにどこかに巨大地震が来るかも知れないので、念のため備えていて。」と連日伝え、自分の体調などを記録するため日記をつけた。
3月に入り、日記には「今日も電磁波が強い。下から突き上げる感じもする。迫ってきている。」と書かれており、前日の3月10日は強力電磁波による頭痛とめまいと倦怠感で寝込み、日記には「しんどくて動けない。身体が自分の身体ではないようだ。おそらく明日、日本のどこかで大変な事になる…」と書いてました。
翌3月11日に東日本大震災が起こり、津波が東北各地と福島原発を襲ったあの時、日本は、大地震・大津波・原発事故という、同時多発の困難を経験した。
地震・津波はこれまでの日本の歴史でも繰り返し経験させられてきているが、原発事故はかつて経験した事ない脅威的な出来事だった。
11日の日記には「やはり、巨大地震が起きた。東北から関東にかけて被害が大きい。津波が各地を襲っている。大変な事になった…」と書かれており、地震で福島原発は電力を失い、予備電源も津波によって失い、冷却水を送れずに、炉芯が溶け出し、12日にメルトダウン、1号機で溜まった水素による最初の水素爆発を起こした。
12日の日記には「おかしい。身体中にアリが何かの熱を発しながらはっているようだ。一体何が起きているのか…」と書かれていた。
福島原発で水素爆発が起こった報道があったのはだいぶ時間が経った夜の事で、爆発直後に大量に大気中に放出された放射性物質がすでに関東地方まで飛ばされて来て、身体がキャッチしていた。
13日の日記「のどが燃えるように熱い。違和感があり、食べ物がのどを通らない…。」
14日に3号機が水素爆発。
その日の日記は「のどが熱く、水分も飲み込めなくなってきた。身体の中をアリがうごめいているようだ…」
そして私の誕生日の15日早朝、水素爆発によって4号機の使用済燃料プールがむき出しになり、大量の放射性物質が放出された。
地震と津波で電力を失い、冷却水を送り込めず、消防車で注水していたが、それも燃料切れで止まってしまい、高濃度の放射能の中で海水ポンプを人力で復旧させると報道され、いてもたってもいられなくなり、ときがわ町にある、縄文の女神アラハバキのエネルギーが集まる、萩日吉神社に行って、父の生家の神社のお札を置いて、そこから父の神社の御神体に祈りのエネルギーを送りました。
その御神体は龍神の最も高次の神通力で水を自由にあやつる事ができる宝で、私は「福島の原子炉建屋に海水を注水して冷却してください。これ以上の悲惨な事態を食い止めてください!」と御神体にエネルギーを送りながら、1時間くらい大祓詞をとなえ続けました。すると「回復する…」と御神託が降りてきて、父の神社のお札が、スッと賽銭箱に吸い込まれました。
「冷却水が注水される…核爆発は回避できる」ほっとして家に帰った。
強力な放射性物質は風向きで関東に流れて来ており、かなり被ばくしたらしく、家に帰ったら、嘔吐と下痢がひどく、鼻血が出ました。
日記には「嘔吐と下痢が止まらない。鼻血も出た。放射能がキツい。でも原子炉に海水が注水出来たようだ。良かった…」と書かれていました。
偶然、私は毎日オーガニックのスピルリナの青汁を飲んでいたのですが、スピルリナとは、藻の一種でヨウ素を含むので、チェルノブイリの原発事故の時も被ばく症状がとても回復した。放射性物質の排出では、チェルノブイリで被ばくした子供達に炭の粉を食事に入れて食べさせた所、子供達の体内からは放射性物質は検出されず、排泄物から検出された。つまり、炭が放射性物質を吸着して排出したのです。
炭は昔から毒素や化学物質・コレラ菌や赤痢菌などの菌やウィルスを吸着して体外に排出してくれるので、私も麻炭の粉を水に入れて飲み、放射性物質を排出しました。(今もコロナウィルス対策で時々、水に麻炭の粉を入れて飲んでいます。)
その後、建築仲間の大工の棟梁のご実家が、岩手の大船渡で、津波で道路も壊滅して物資が届いていないらしく、物資の支援を呼びかけたら、多くの女性たちが動いてくれて関東中から食料・衣類・防寒着・毛布・おむつ・下着・日用品などもの凄い量集まり、家具展示場の2階の体育館の様な広さがいっぱいになりました。震災から2週間で現地の仮設道路を自衛隊が作ってくれたので、棟梁のトラックと私が運転する大型車に物資を詰め込んで、手に入らないガソリンも皆さんが容器に買い集めて来てくれて、車に積んで、パーキングでガソリンを補給しながら、東北自動車道を走りました。
福島は原発事故からまだ2週間で立ち入りが制限されたので通過して、まず岩手の大船渡に行き、物資が届いていない集落に届けました。
写真はその時の大船渡の様子です。家がたくさん海の中に流され、屋根だけが見えていたり、船が高台に打ち上げられていたり、街が壊滅していました。
物資の中で一番喜ばれたのが、無農薬の野菜でした。避難所生活で、おにぎり・パン・カップ麺などばかりでビタミン不足なっており、野菜がとても喜ばれました。
大船渡から陸前高田に移動して愕然としました。あそこは地形の関係で、津波の高さが40〜50メートルはあったと思います。山の相当上の方まで、網や浮きがからんでいました。「あんな高さまで津波が来たら逃げようがない…」
その後も気仙沼・仙台・石巻・女川とあちこちに移動しましたが、津波が内陸何キロも川をさかのぼって、川沿いの集落が壊滅していました。
すざましい光景を見続けて、とても辛く、泣きながら運転していました。物資を届けつつ、亡くなった方にお線香をあげて手を合わせました。
埼玉に戻ってから、家具展示場の2階で残りの物資を関東に避難して来ている人達に呼びかけて、差し上げました。赤ちゃんや高齢者がいる家族は、避難所に入りにくく、親戚や空き家に避難して来ていたので、支援物資を受け取る事が出来ていませんでした。
「埼玉のときがわに行くと赤ちゃん用品や日用品がタダで受け取れるらしい」と避難者の人達の間で話題になり、関東のあちこちから大勢の人が物資を取りに来ました。
福島原発が建つ双葉町の方々も集団で埼玉に避難していたので、私の所に生活用品を取りに来ました。お話しすると「放射能で土地も海も汚染されて、復興しようがない」と皆さん涙ながらに悔しがっていました。漁師だった人は「津波で家も船も流されて、放射能で汚染された故郷には帰れない…あの海でもう漁は出来ない」と男泣きしていました。せつなかったです。
残った物は販売してお金にして、義援金にしました。
数ヶ月後、岩手の大船渡の人達から荷物が送られて来ました。「中古の船を買って、震災後、初めて漁に出てとれたサンマです。物資を集めてくれた皆さんで食べてください。」と書かれていました。
2011年は、あまりの出来事に普通に生活が出来ずに、般若心経の先生と地震や土地を沈めにあちこちを旅したり、亡くなった方々の供養の旅をして過ごしました。もの凄い1年でした。
震災も疫病も人間達に目を覚まさせる警告でしょうね。生き方を見直す時だと思います。